スタッフブログ

大工の歴史

2021.10.21 スタッフブログ

みなさんは、大工の神様と呼ばれる歴史上の人物の名前を知っていますか

それは……かつて1万円札の顔としても登場したあの人物、そう「聖徳太子」です! 聖徳太子といえば遣隋使の派遣をはじめ、冠位十二階・十七条憲法を定めた飛鳥時代の政治家として知られていますが、なぜ「大工の神様」と呼ばれているのでしょうか。

一説によると、聖徳太子は現代に伝わる大工道具の「差し金(曲尺)」を中国から持ち込み、日本の職人たちに広めたといわれています。また、建築に携わる職人の育成や組織づくりに努め、法隆寺をはじめとする寺院の建立にも尽力したことから、建築・土木の守護神として信仰され、「大工の神様」と称されるようなったのでしょう。

ちなみに、聖徳太子がつくった建築技術者の組織では、土にかかわる職人を「左官」、木にかかわる職人を「右官」と呼んでいたそうです。このうち左官は、塗装職人の名称として現在も残っていますが、右官は後に大工という名称に変わり、さまざまな専門ジャンルに枝分かれしていきました。

この右官に代わる「大工」という名称が登場したのは、奈良時代に入ってからのこと。寺社や朝廷の建築物を担当する木工寮という役所がつくられ、その中の職人のランクとして「大工」「小工」「長上工」「番匠工」という役職が置かれました。 つまり、もともと大工は「職人の長・上位者」という位置づけで使われていたのです。

その後、室町時代に入ると、上位職人は「棟梁」という呼び名に変わり、建築に携わる木工職人全般を大工と呼ぶようになりました。さらに、この頃から大工職人の仕事が細かく分けられるようになり、宮大工や建具大工などの専門職種が登場しました。

「大江戸の花形職人」の厳しい下積みとバラ色の人生

そして江戸時代になると、大工をはじめとする職人の仕事の種類は、約140種類にも及んだそうです。なかでも、伝統の技と気概で江戸の華と称されたのが、大工・左官・鳶(とび)の三職です。彼らは江戸の街を築き上げる「華の三職」としての誇りを持ち、街の人々からも一目置かれる花形的な存在でした。

とはいえ、花形職人になるための下積み生活は、精神的にも肉体的にも相当の苦労が強いられたようです。たとえば大工になるためには、12~13歳で親方の家に住み込みで弟子入りし、朝の拭き掃除から洗濯、三度の飯炊き、夜の風呂焚きまで、家の雑用をこなすのが日課でした。もちろん、まだまだ現場に出ることは許されません。こうした下働きを1~2年経た後、ようやく現場に出られるようになるものの、親方から大工道具の名前を教わる程度で、あいかわらず仕事の内容は現場掃除などの雑用ばかり。

それだけに、20歳を過ぎても半人前以下の扱いで、ちょっとでもヘマをすると親方から怒鳴られ、ビンタや食事抜きなどの体罰も日常茶飯事だったといいます。それでも辛抱して10年以上修業を積み、一人前の大工を目指したというのですから気の遠い話です。「華の三職」たる誇りと気概は、この厳しい試練を乗り越えてきた自信にあるといっても過言ではないでしょう。

その分、一人前の大工になって独立すれば、待っているのはバラ色の人生。当時の大工の賃金は1日あたり540文だったといいますから、一般町民の賃金300文と比べると相当の高収入です。しかも1日の実労働時間は4時間程度で、早朝や日没以降の仕事には時間外手当が付くなど、労働条件もかなり恵まれていたようです。

また、当時の江戸の街では頻繁に火事が起きたため、家を建てる大工は次々と仕事が舞い込んで引っ張りだこ。どんどん稼いで羽振りがよくなれば、当然ながら夜の遊びも粋(派手?)に決めて、「江戸っ子は宵越しの銭はもたねえ!」となるわけです(笑)。今でも大工職人というと気風のいい粋なイメージがありますが、こうした江戸の職人気質が受け継がれているのかもしれませんね。

 

歴史のなかで有名な大工といえば?

歴史上、最も名の知れた大工といえば日光東照宮でお馴染みの「左甚五郎」でしょう。「眠り猫」みたさに全国各地からはもとより世界から観光客が押し寄せているのですからやはり腕は一級品といえるでしょう。

 

 

 

 

 

今回は、大工の歴史について調べてみました(*^-^*)